飛花落葉(hika rakuyo)

Chill系のアホです

その時食ったものが、今の体の1部。


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(昨日の昼に食った居酒屋ランチ。その時、落葉は何を思っていたのだろう。)

 

 

こんばんは、落葉だよ。

 

ちゃんとアクセス件数とかは見てるんだけど、1部の友達はたまに読んでくれてるみたいだ。

ありがたい。

読んでくれた友達に良い事がありますように。

すれ違い様に目が合った素敵な女性が、貴方に微笑みを与えてくれますように。

 

 

 

合掌。

 

 

 

 

ということで今日は、日常会。

 

 

今日のメインテーマは

『悲しい事を忘れたっていい』

 

※今回はけっこう長いので、気楽にバーッと読んだ方が良いかも

 

 

悲しい出来事ってあるよね。

それもカップ麺を上手く作れなかったとか、前田大然が横浜FMを去ってしまったとか、そういう可逆的な悲しさじゃなくて。

(前田大然はきっと戻ってくる!!!セルティックチェルシーを経て!!)

 

 

 

 

(チェルシーって日本人行ったことないよね?前田大然の青シャツをチェルシーで見られたらかっこいいよなあああ、、、、)

 

 

 

(がっつり趣味が出てしまった。)

 

 

ということで、今回の『悲しい事』は、

  • 不可逆であること
  • 人に関すること

 

 

と限定することにしよう。

 

どうでもいい様な悲しい事で↑2つを満たすことは無いだろう。

例えば、、、

 

  • 好きな人と会えなくなる
  • 『今後サッカーボールを蹴ることは無理だと思ってくれ』という医師宣告
  • 戦争

 

 

めっちゃ重たくなってしまった、、

でもこういうのってマジで、生活に支障をきたすくらいしんどいよな。

 

 

それとどうやって向き合って、どう乗り越えていくか。

 

これは人生において、サバイバルという文脈で、かなり大切なタスクだと思うんだ。

 

俺のモットーは、敬愛せし村上龍先生の言葉を借りて、

  1. 死なないこと
  2. 楽しむこと
  3. 世界を知ること

 

の3つ。

死んだら終わりという感覚を持ってるタイプのミュージシャン。

 

俺は仙台出身の25歳、東北大震災は中二の3月だった。

 

 

マブダチが死ぬってことは無かったが、人は不条理に死ぬってことは分かった。

あと、古い木造の建物が揺れで柱を折られてペシャンコになるってこともね。

 

その時のやりきれない気持ち、平和を願う気持ち、これを忘れないようにしなきゃと思った。

 

 

 

のだけれど。

『あの経験を風化させない』

『東北の今』

 

テレビでガンガン流れるこの謳い文句に、置いてけぼりにされてない嬉しさがある反面、引っかかるところもあった。

なんであんな思い出すだけで気が沈むような事を覚えておく義務が、俺達にもあるんだろうって。

 

で、まあ当事者はそんなに思い詰める必要無いのかなとも、シンプルに思ったけど。

 

当事者でない人達だって、忘れる権利はあると思う。

 

 

足が挫けた状態から立ち上がる時、人は勢いを必要とする。

 

 

時には腕を大きく振り上げるし、「ヨイショ」と時には声を出す。

 

 

 

その時、そのエネルギーを奪うような要素は、この際、意識の外にあってもいいんじゃないかって。

そんなことを『あの震災から2年』くらいから、感じるようになった。

 

 

かと言って、忘れてしまえばいいっていう考えも、極端すぎるというか不自然というか。

無理をしてもしんどいっていうこともある。

 

 

だから、思い出した時に好きなだけ思い出せばいいし、今そこと違う場所を見られているなら、そこに集中すればいいと思うんだ。

 

 

バランスってことなんだけど、そのバランス取りの助けになるんじゃないかっていうのが、今回のタイトル。

その時食ったもんが、今の自分の体の一部を成してるんだっていう考え方。

 

 

忘れたって良いと思うんだ。

頭で忘れたとしても、その時感じた事とか考えてたことは、その時食ったものと一緒に自分の1部になってるんだから。

 

教訓だってそうじゃないかな。

 

大事な友達を亡くして悲しんだ人が、毎日の様にその人を思い出すことはなくなったとしても、別の友達と会う時間の重さは、亡くしたことがない人より必ず重いはずだ。

 

意識してようと、無意識だろうと、その経験が無になることは絶対にない。

だから、その''重さ''を身体のどこか一部で知ってる人は、そうでない誰かに、必ず何かしらコミットする。

 

いつか誰かに『お前良い奴だな』と言われる事があるとしたら、そんな悲しみの種が花開いた瞬間だ。

そう思えれば、ちょっとはこの先も明るい気がするんだよな。

 

 

そもそも俺達は普段、偉そうに『自分の意思で』考えたり、身体を動かしてるような気になっているけれど、地球から見たら『色々経験した知的生物』くらいの存在だろう。

 

だから俺は、人間のことを『思い出の物質化が歩いてる』だと思っている。

 

 

まあ命とか出てくると重くなっちゃうけど、彼女にフラれた時とかでもいいよ。

『自分じゃどうすることも出来ない』

『自分の力では解決できない悲劇』

 

そういう思い出、忘れたくても忘れられない事って、本能的に『覚えておこう』と身体が感じてる場合がほとんどらしい。

 

ホントに自分にとってマイナスでしかない出来事は、勝手に忘れていく仕組みがあるとどこかで読んだ。

 

『あれだけ忘れられなかった恋人もいたけど、気付いたら今の人に夢中』

 

なんてこと、日本でも毎秒1万件ほど処理されていく様なデータだろう。落葉調べ。

 

でも、その忘れられなかった人と一緒にハンバーグセットでも食いながらさ、あれ言ったら怒られたとか、喜ばれたっていうナレッジを蓄積してた訳じゃない。

で、そんな事細かに全部は覚えてらんないけど、その時のハンバーグが、今の恋人を前にしてる自分の中に残ってると思うんだよね。

 

内臓かどこなのかは、よくわからんけど。(笑)

 

だからさ、そんな身体だから、今の恋人を言葉で暖めてあげたり、相手の心地よい強さで、手を握れたりするんじゃないかな。

 

だから、堂々としてればいいんだよ。

 

って書いてたら今日が『震災から11年』なのは、ホントにたまたまね。

 

でももしかしたら、あれを経験した身体が、季節の匂いとかを感じ取って、こういう事を俺に書かせてるんじゃないかなって。

 

 

今日はそんなお話でした。

またね。

 

 

落葉